承認欲求が消える瞬間

  SNS で、自分が被ったわけでもない問題についてあれやこれや批判を投稿するというのはもう当たり前の風景になった。見ていて気持ちの良いものではないが、少なからず僕だってそうだし、僕に限って言えば以前はもっとひどかった。

 僕のフォロワーでも 5 年前と今とではずいぶん性格が変わってしまった(ように見える)者がいる。日々の発言に含まれる正論の割合は立派なものだが、ときに暴力的ですらあるそれを、わざわざ目に見える形にする Twitter 的なサービスは、10 年後に今と同じ姿では居られないだろうし、Twitter に限って言うと恐らく消滅しているだろう。

 

 Twitter の心配はどうでも良い。よくある言説は「彼らの言動を駆り立てているものが承認欲求である」というレッテル貼りから始まる。僕はこれがレッテル貼りに見える。というのも、果たして承認欲求は SNS によって満たされているのだろうかという疑問が消えないからだ。どこかに「n いいね👍」「m RT」の n, m がいくらになればその欲求が満たされるという境界ラインを見出した研究結果でもあるんだろうか。「この美味いラーメンを食べて食欲が満たされました」「昼すぎまで寝たら昨晩の疲れが取れました」「ここに投資したら目標だった資産の形成ができました」「結婚相談所に登録して結婚できました」とかなら、まぁ見聞きしたことあるが、果たして強力なインフラによってリアルタイムに反応が見えるのが当たり前になった SNS で「溜まってた承認欲求が満たされました」っていう人を見たことがない。

 こういう切り口から入る話の、次の展開などどうせ決まっている。承認欲求に振り回されないための心の持ち方とはどういうものか、である。炎上歓迎タイプ、降りかかる dis をものともしない強い心を持つタイプ、気にせず受け流すタイプ、そもそも承認欲求を発生させないテクニックを習得するタイプ*1など、いろんな人がいるなぁ(ニコニコ)という感じだが、とにかく「そんなもん個々人の処世術の範囲だろ」と言いたくなるような話題に無数の解説記事が組まれ、Web のあちこちに転がっている。

 さて。承認欲求というものがありそれが満たされない人がたくさんいる、というのはその通りだと思う。字面どおり、この欲求は承認されれば満たされる。ではいかにして欲求が満たされるレベルの承認を得るのか?承認をする者が一個の人間である以上、完全に理解された上でさらに承認を受けるというシナリオは有り得ない。しかし、もし承認されたと錯覚することができたなら、承認欲求なんてものは簡単に満たされ霧散する。ではそれはいつ起きるのか?と僕の経験を振り返ってみるに、自分より頭の良い他人に自分の世界観をマルっと説明されたときに、起きるように思う。

 説明の切り口は本当に些細な糸のほつれだったりする。頭の良い人間はそのほつれを見逃さず、そこにじわっと湿り気を与えてみようと試みるものである。そしてその人の内面に浸透するかのごとく、わずかな時間で人間性を理解する。理解された側の人間にとっては、これは突然訪れるスコールみたいな体験になる。このとき「いいね👍」だとかの賛同を求める気運が生まれないのが SNS との違いではなかろうか*2

 

 承認の尻尾を追いかけていつまでも SNS に入り浸って出てこれず、流行りに乗って都度都度ピエロのように言動を重ねるというのは、ある側面から見ると知的ではあるのだろうが本質的にはとても動物的である。僕はそれを悪いとは言わないが、頭の良い他人と対話をするだけでその状態からスッと抜けだす機会をゲットできるので、そこだけ意識的になっておくと随分違うぜー、というのが今日のまとめ。

*1:順にそれぞれ炎属性、地属性、風属性、水属性である

*2:さしずめ「RT」というのは承認した側が受ける逆風のようなもだと位置付けることができて、やはりこれも要らないように思う