読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

インターネットのイメージ

生活

 インターネットがずいぶんと普及して、昔よりもアクセスできる情報が増えた。まったくありがたい時代になった。しかしその一方で、ネットに全く触れず、携帯電話も使えない人もたくさんいるわけで、そういう人たちと一緒に生活しながら世の中が回っているというのも事実。
 これがあと 30 年もすれば(少なくとも日本では)そうした人は今より少数派になるだろうし、もっと先の将来を想像して振り返ってみるに、現代がそういう「インターネットに繋がってて当たり前の社会になるまでの過渡期」であることには間違いないと思う。

 今更の今更の今更になって、インターネットがある社会と無い社会との違いみたいなものが、ようやく自分の中でイメージとして固まってきたので書き殴っておく。



 インターネットが無い社会というのは、とにかく情報が遠い。物理的にも時間的にも情報にアクセスするまでの距離が比較的長い。しかし物理的・時間的局所性に依存した文化の成熟が深いように思う。たとえば方言だったり食文化だったり規律だったりする。これをイメージにするとこんな感じ。

 で、図中のそれぞれの集合がいわゆる「コミュニティ」なんだけど、成熟が深いというのはこのコミュニティを囲う壁が高いということである。あるコミュニティから別のコミュニティのコトを知ろうとするとき、一旦この壁を超えないといけない。

 壁を超える者もちょっとがんばらないといけないけれど、その受け口との繋ぎになるのがいわゆる「礼儀」だと思う。互いを知らないからこそ、しっかりと礼節を払う、という代償が要るわけだ。礼儀の程度は、壁を超えてくる相手をフィルタすることにも使える。

 さてインターネットの登場で情報にアクセスしやすくなり、先程のイメージがまずこういう風に変わった。

 壁が低くなって、他のコミュニティと交流しやすくなった。... と同時に、「存外、向こうもウチと似たような感じなんだな」感もじわじわ広がったように思う。そもそも壁なんてそんなに高く設定する必要無かったんである。

このように、コミュニティが持っていた深さが半減したことで、世界は浅く、そして広くなった。自分が全体のどこに位置しているのかを知りやすくなった。

そのおかげで複数のコミュニティに所属しやすくなったし、活動の幅は広がったように思う。


 ... と、ここでひとつ、「本当に浅くなったんだろうか?」という疑問が出てくる。

 んなこたぁない。二重になったんである。

 インターネットから見えない社会ってのは、例えば非常にパーソナルな部分だとか、インターネットから見えるようになる前の予備軍となる部分だとか、そういったものを指す。これを書いている現代ってこういうイメージなんじゃないかと思っている。(賢い人は、この二つをうまーく行ったり来たりしているように思う。)

 これからインターネットはもっとパーソナルな分野が発達していくと思うし、それは、これまでインターネットに載っていなかったコアなものが徐々にインターネット側に移っていくプロセスでもあると思う。



 最初の話に戻るが、今インターネットに触れていない人たちはきっと別のものが見えている。インターネットを使う人達がコミュニティの壁をぐっと下げたことは、インターネットに触れない人たちにも恩恵を与えているハズである。インターネットに触れない人たちには、今の社会が『これまで社会が少しずつ変化してきたのと同じように、インターネットが登場した頃から少しずつ変化した結果』であると認識しているんではないか。

 つまりこう。

 自分の周りがちょっと広くなって見通しが良くなったというわけだ。インターネットが、それを利用しない人たちの価値観に影響しているとすれば、これはこれで素晴らしいことだと思う。



以上が今んトコの僕のイメージ。

 しっかし、纏めるまでやたらめったら時間がかかった気がする。ちゃんと社会学とか心理学とかの本を読んで、ざっくばらんに体系立てておけばもっと速く、より明瞭なイメージを持てていたんだろうな〜。