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被災しないことで気づいたこと

生活

東日本大震災がありました。

Twitter の TL の流速の速さがいつもの 3 倍くらいでした。
空いた時間はそれを追っかけていました。

で、
 ・被災していないから見えるモノ
 ・被災していないと見えないモノ
の両方があるなぁと、ずいぶん経ってようやく気づきました。

■被災していないから見えるモノ

⇒ 情報。

 これは圧倒的です。テレビや Web がある限り、あらん限りの情報が手に入ります。特に Twitter 等で「情報が集まってくる」環境があると特に。
 しかし良い情報ばかりではないですね。不安を煽る憶測や、デマの拡散もたくさんありました。すると「未確認な情報を流すな!」「不安や混乱を誘発するから辞めろ!」的な発言も大量にされるわけです。そんな中、池田信夫教授の呟きが相当に dis られていました。

 僕はこれは同意だったのです。最初は。Twitter にアクセスできる被災者は同時に大量のデマにもアクセスしているわけで、情報を受け取る人がその信憑性を見分けられないとダメ、という通俗的リテラシーがここでも適用されると思ったのです。

■被災していないと見えないモノ

⇒ 死体

 死亡者の数は報道されますが、死体はテレビでは映らないです。しかし被災者は見ています。あと現場の臭いも。視覚、嗅覚、聴覚などを使って多くのモノをインプットしているんですよね。きっと悲壮と焦燥に同時に覆われているだろうし、ふとした瞬間に不安と恐怖に飲まれることと思います。


■つまり
 被災しないからこそ得られる膨大な情報によって形成される思考と、
 被災したからこそ得られる研ぎ澄まされた五感によって形成される思考
が同じ時間の中でコミュニケーションするわけです。数百キロ離れているだけだというのに、まるで互いが別の国であるかのように、両者の間には倫理感覚のズレがあります。

 例えばさっき挙げたデマですが、僕は「信憑性を見分けられないとダメ」と書きましたがそういう姿勢はやはりよくないですね。これは被災していない側の勝手な倫理観です。かなり反省しました。

 しかし一方、ある程度の憶測はやはり必要だとも思います。
 では、被災しない(=大量の情報にばかり思考を形成されている)側の人として陥ってはいけないのは何かというと、「情報を右から左にどんどん流せばきっと誰かの為になる」という思考停止です。「被災者は信憑性を判断する能力にハンデを背負っているのだ」という前提を被災していない側が理解してあげないといけないですね。