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3 歳半までに読ませて良かった絵本

 普通、大人になったら絵本なんて見ない。ひとりの大人が普段から絵本の棚へ足を運ぶというのは、子供がいる場合に限定されるんじゃないか。絵本は子供の頃には誰もが触れたものなのにも関わらず、絵本の棚を日頃から見ている人とウン十年も見ていない人に大別されるということは、絵本市場にとって決して良いことではないように思う。僕も以前は絵本コーナーなんて目もくれなかったが、子供ができたことを契機に書店や図書館で絵本コーナーを眺めるようになった。

 そこで気がつくのは、この絵本という市場にはどうしようもないクソみたいな本が溢れているということ。心のこもっていない絵だったり、やたら少ないページ数、ペラペラな内容、割高感... などなど。特に、2 歳以上が対象の絵本で、何かテーマ(挨拶、色、動物、オノマトペなど)を掲げてそのテーマに関するネタを並べる構成になっているものには目も当てられないものが多い。そういった作り方をすると一冊にまとめやすいというのは分かるんだが、率直な感想として子供をナメてんじゃないかとすら思う。
 そんな感じで絵本市場にすこーし怒っているのだが、ちゃんと探せば良書というのは見つかる。良書と言っても究極的には "僕にとっての" 良書にしか過ぎないわけだが、その時々の流行りでもなく出版社のイチオシでもないセレクションは誰かにとってきっと有益だと思うので書いておきたい。

 

なお、以下、断りなくガンガンネタバレする。

 

* 〜 0 歳半
 最初に見せる 1 冊は、原色を使ったのを選ぶと良いと思う。これは情操的な側面よりもそもそも乳児の目の構造が繊細な色の違いを認識できないという体の発育的な側面に依るところが大きいため。書店に行けば、そういう絵本が売っている。ぶっちゃけ、そういう絵本の選択肢は限られているので割愛する。

 

* 0 歳半 〜 2 歳

1. くだもの

くだもの (福音館の幼児絵本)

くだもの (福音館の幼児絵本)

 

 平山和子さんの絵はとても丁寧で美しい。これ以外にも「やさい」「おにぎり」などがあるが、この「くだもの」が最も美しく、また内容も偏りが無くて好感が持てた。絵の美しさだけでは無く、各ページの「はい、どうぞ」というセンテンスの繰り返しの面白さもある。また食べた経験のある果物が増えていくという食生活の変化や、言葉の習得という生活の変化も相まって、何度も読み方を変えて楽しめるめちゃくちゃコスパの良い 1 冊。

 

 2. んぐまーま

んぐまーま (谷川俊太郎さんの「あかちゃんから絵本」)

んぐまーま (谷川俊太郎さんの「あかちゃんから絵本」)

 

 最初から最後まで何が描いてあるのか全く理解できない絵本。色マジックをめちゃくちゃに紙の上で滑らせたような絵と、例えば「みょぷらぬ のに?」などそもそも日本語でも擬音語でもない文字が並ぶ、完全ぶっ壊れの 1 冊。

 でもちょっと考えてみて欲しい。一般に、絵本に出てくるキャラクタといえば可愛いクマだったりウサギだったりするが、それは現実の熊や兎を可愛らしくデフォルメしたものである。しかし乳児は実際のそれを見たことがないし、仮に見たことがあったとしてもその熊や兎の特徴をうまく切り出しキャラクタライズして描かれた「クマ」や「ウサギ」であることなど理解できるはずがない。乳児に「クマ」「ウサギ」という概念はそもそも存在しないのだ。もっとサイケデリックな色彩感覚で世界を見ているはずである。視覚だけではない。音だってそうだ。この絵本はそういう世界観を持つ乳児に、絵を見ることの楽しさを訴える本だと思う。
 そういうポイントを絵本という形に昇華させた谷川俊太郎は天才だと思うが、同様のコンセプトであろう「もこ もこもこ」「ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ」よりもこの本の方がよりピュアな印象を受ける。

 

3. Brown Bear, Brown Bear, What Do You See?

Brown Bear, Brown Bear, What Do You See?

Brown Bear, Brown Bear, What Do You See?

 

 Eric Carle の絵を使った絵本は世界中で読まれているが、絵が独特でありながら妙な癖が無いのが良い。僕も好きだ。ページをめくるたびに動物の絵が描かれていて、単純にその絵を楽しむこともできるが、動物がそれぞれワントーンの配色になっているので例えばその動物が何であるか分からないような乳児であっても色の変化だけで楽しめる。リンクしてあるのは英語のものだが日本語のものも出ている。各ページの動物に「What do you see?」と問いかけてページをめくらせる構成が読み進める動機の継続を促していて、巧みだなと思う。

 僕は英語の本を少し混ぜるようにしているが、その目的は子供に英語を覚えさせることでは無く、ざっくりいうと二つある。一つは普段使っている言語以外の言語が存在するということそれ自体への抵抗を無くし、ものごとを多面的に見ることの足がかりにすること。例えば「これは犬であるが Dog でもある」ということがもう既に面白いじゃないか。もう一つは僕自身が英語を理解できず"コレどういう意味?"ってなって調べて納得するというプロセスを子供に見せることで、よく分からないものが現れた時の処世を、子供の手の届く範囲のものから体現すること。(後者は、僕ぐらいのプアな英語力では 3 歳児向けぐらいの絵本で完全には読めないものが出てくるのでその時に。)
 まぁとにかく、たとえ正しく英文を読めなくとも、少し混ぜてやるのが良いと思う。絵本は言語の壁を超えて楽しめるコンテンツなんだし、しかも子供はわけの分からないものを全力で楽しむ能力に長けている。

 

4. 絵本 強力 補修テープ

 本じゃないがついでに。

絵本 強力 補修テープ (3cm×5m) H-27-B

絵本 強力 補修テープ (3cm×5m) H-27-B

 

  乳幼児は「絵本が食べ物ではない」ということが分からない。また「新聞紙みたいに破って遊ぶものでは無い」ということも分からない。だからボロボロになるまで補修してその本能に付き合ってやるべきだと思う。そのために絵本用の補修テープが便利である。セロハンテープと比べて黄ばみにくく、光を反射しにくく、テープ縁にホコリがつきにくい。

 

* 2 歳 〜 3 歳
物語を楽しめるようになる。

 

5. Dream Snow

Dream Snow

Dream Snow

 

  Eric Carle の絵本その2。この本はハードカバーが良い。なぜなら最後のページにオルゴールが埋め込まれているから。木に飾りをぶら下げ、5 匹の動物たちとささやかなクリスマスを祝うおじいさんに、読者である子供がメロディーを贈ることによって物語が終わりを迎える。読了時の余韻がとても良いのと、子供が物語に参加できる面白さがあるのがこの本の最大の特徴。僕は基本的に、触って遊ぶ系の絵本とか、開くと飛び出す系のしかけ絵本は買わないのだが、この本はそういう絵本にありがちな粗雑さが無い。

 うちの子には 2 歳半ぐらいに与えたが 3 歳半の今でも時々読んでやる 1 冊。

 

4. クエスト にじいろの地図のなぞ

クエスト にじいろの地図のなぞ (講談社の翻訳絵本)

クエスト にじいろの地図のなぞ (講談社の翻訳絵本)

 

 字が全く無く、絵のみで物語が進む絵本。字の無い絵本というのは探せばぼちぼち見つかるが、その中で物語になっているもの、さらに言葉が未成熟な幼児が楽しめるものは本当に少ない。

 字が無いので、最初、親が "淡々と文章を読む係になりきることで気配を消す" ことができないことに疲れると思う。この絵本は親が口語で適当に語ってやれば良い。親が普段の口調で、絵を見て "(文字通り)物語る" ことで、子供は話の続きをいつもよりじっと聞き入っているような気がした。それを何度も繰り返すと、今度は子供が自分の言葉で話をしてくれるようになる。子供による絵本の読み聞かせによって僕が寝かしつけられてしまった最初の 1 冊。

 

5. いちねんめいろ

いちねんめいろ (ほるぷ創作絵本)

いちねんめいろ (ほるぷ創作絵本)

 

 うちの子に限らず迷路が好きな子は多いと思う。が、これまた迷路を扱う絵本には幼児向けの良いものが少ない。この本は、4 月, 5 月, ... 3 月という順に、一年のそれぞれの時期を迷路に描いた力作である。

 迷路を扱う本を探していると、迷路を載せている幼児向けの本には以下のようなグレードがあることに気づく。

  1. 壁だけの迷路
  2. 壁だけの迷路 + 全体を俯瞰すると何かの形になっているまたは少し立体的にしてある
  3. 壁だけの迷路 + 道中にイラストが散らしてある
  4. 明示的な壁がなく、木や人などが迷路を構成している

大人がパズルゲームの一環として迷路をやるなら 1. が迷路としてノイズが無いので良さそうだが、指でなぞる事それ自体を楽しむ子供なら 4. の方が断然良い。この本は 4. にあたる。
 また、大量に配置されているイラストには一つも複製が無いという事も取り上げておきたい。僕はイラスト中に複製が置かれるコンテンツを嫌っている。これは迷路に限らず、例えば絵探し系の絵本にも言えると思う。例えば「アンパンマンをさがせ!」シリーズでは、一見するとアンパンマンの大量のキャラクタの中から探し物をするみたいで楽しそうだが、よくよく見るとキャラクタがまるでスタンプでぽんぽん押されたように各々ポーズを取っていて、キャラクタ同士の絡みがほとんど無い。また表紙に同じキャラクタが四人も五人も描かれていたりして、もはやこれは絵として成立していない。「いちねんめいろ」はその点しっかり描き込まれている。
 ちなみにこの本の中の全ての迷路は絵探しにもなっている。面白いのは、その絵探しの問い自体が絵の中に紛れている点である。迷路を楽しんだあとは、絵探しの問題探しをする。そして絵探しができるわけだ。


 話はそれるが、迷路本はちょっとひねりを入れるといろいろに楽しめる。とりわけ、道幅が広く描かれている迷路を用意してそれにシールを貼って遊ぶのが興味深かった。例えば曲がり角に花や車のシールを貼れば賑やかな道になるとか、行き止まりにキリンのシールを貼れば嬉しくてわざと行き止まりへ寄り道したくなるとか。これは単にシールを貼るのが楽しいというだけでなく、自分で遊び道具を作ることもまた楽しいという意味で、二重に美味しい。

 

6. The Gruffalo

The Gruffalo

The Gruffalo

 

  グラファロは Julia Donaldson の代表作である。ストーリーはこうだ。

主人公は一匹のネズミ。彼は狐・フクロウ・蛇といった天敵から逃げるために、彼自身が適当に想像した、存在しない怪獣「グラファロ」との友情をほら吹いて歩く。しかし突然、本当に想像通りの怪獣「グラファロ」に遭遇してしまう。グラファロは彼を食べようとするが、彼は「僕は森で皆に恐れられているんだよ、知らないの?」とさらに嘘を重ねて待ったをかける。そして今度はグラファロを連れて先ほどの天敵たちに会いに行く。そうすると皆、彼に吹き込まれた事前情報にピタリ一致する怪獣が目前にいることに恐れ驚き、逃げ出す。グラファロはその様子を見て、彼は本当に恐れられているんだと思い、そして彼から逃げていく。無事に一人になったネズミは、誰にも邪魔されずゆっくりクルミを齧る。

 この話は、ネズミを食べようとするキャラクタが嘘情報に翻弄される滑稽さが面白い。ポイントは、その嘘情報がキャラクタそれぞれで異なるということにある。3 歳ぐらいになればそういう情報の非対称性をなんとなく理解できるようになる。この絵本を繰り返し読んでやると、理解する瞬間に立ち会うことができる。3 歳と言わず 4 歳でも 5 歳でもきっと楽しめる絵本だと思う。
 続編として「The Gruffalo's Child」があり、その他彼女の作品には「The Snail and the Whale」「Room on the Broom」などがある。いずれも良書だと思う。


* 3 歳 〜 4 歳

少し長めの物語を楽しめるようになる。

 

7. わすれられないおくりもの

わすれられないおくりもの (児童図書館・絵本の部屋)

わすれられないおくりもの (児童図書館・絵本の部屋)

 

 老いたアナグマが、話の序盤で死ぬ。これは、アナグマの死を悲しみ、彼との思い出に浸る動物たちが互いに慰め合いながら死を受け入れる様子を描いた物語である。

 幼児期に近しい人の死というイベントにエンカウントするかどうかは人それぞれだが、そういうことが無かったとしても、公園でアリを踏み潰すなどして死が何なのかは知っていると思う。この本は身近な人の死というものをどう受け止めていけば良いかを教えるのに良い内容になっている。死を扱う絵本はいくつかあるが、夢の中で死者と会って何かを悟るとか、いつまでもクヨクヨしてはいけない的な心境の変化を経て生の感触に奮い立つとか、またはもっと別の宗教的な解決を図るとか、そういうのはいちいち仰々しくて良くない。この本はその点とてもマイルドで、夜、寝かしつけの時に読んでやったって良い。
 原作は英語なのだが、小川仁央の日本語訳が良いので日本語版の方が良いと思う。

 

8. 手ぶくろを買いに

手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)

手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)

 

  人間を恐れる母狐と、動物を見逃してやる人間がいる。主人公の子狐は、その両者の間に立たされる。この話には動物と人間それぞれの優しさと偏見の両方がちらちらと出てくるのだが、それによって子供と大人の対比が描かれている。新美南吉、黒井健のペアによる絵本としては「ごんぎつね」の方が有名だが、「手ぶくろを買いに」はごんぎつねのようなやや衝撃的なラストにはなっておらず、幼児にも読み聞かせやすい。ただ、文章に使われている言葉や比喩表現は幼児には難しいものが多く、本文をちゃんと理解しようとすると多分 5 〜 6 歳ぐらいまで待たざるを得ないと思う。まぁそれは「クエスト」と同様、口語で話してやれば済むので問題ではない。
 なお、うちの子はこの絵本の絵が嫌いだと言った。著名なイラストレータといえど、子供には好き嫌いがあるのでそれはしょうがない。興味深かったのは、絵が嫌いだから絵本も読んでほしくない、という態度をとったこと(まぁ、この時本人の機嫌が悪かったというのもあるんだが)。
 しかし、絵が嫌いと言う子供に「わかってねーな。オメーもまだ若いなw」ととりあえずたしなめ、本は想像しながら読んでも良いこと、絵本の絵は見たくなければ見なくても良いこと、例えば狐さんの話なら自分が好きな狐さんの顔を想像するだけで物語がぐっと面白くなることなどを教えた。そうすると、すっと読み聞かせを聞いてくれるようになった。また既に読み古した他の絵本であっても「このリスさんがゾウさんみたいに大きい顔だったらどうなる〜?」とか(正直よくワカラナイ)話を振ってきたので、まぁ、また一つ楽しみ方が増えたということだろう。絵本との向き合い方はそうやって色々で良いよな、という気がする。

 

* 最後に

 何だかんだ言っても、子供は自分が興味があるものにしか反応を示さない。子供が面白そうだと思わないものを無理に押し付けるわけにはいかない。親が与えるタイミングで子供が興味を示さないことだって多いと思う。これは絵本に限らず、おもちゃにしたって、知育ナントカって書いてある教材の類にしたってそうである。気負って英才教育するのはサムいなとも思う一方、子供が欲しいと言うものばかりを与えるのも何か違う気がする。

 基本的に値札がつけられて売っているものである以上、その商品のターゲットは子供ではなく親であると思った方が良い。子供が遊ぶものが陳列された売り場の棚では、当の子供はそっちのけである。だから与えるものと興味を持つ持たないのミスマッチが起きる。

  たとえその時子供が興味を持たなくとも、子供の視界に入るところに置いておくと、ある日突然手を伸ばしたりするもんである。親自身がおもしれーなって思えるものを子供と共有できたらそれは単純に嬉しいし、そのための道具として絵本というのは手ごろなコンテンツであるように思う。

優秀なエンジニアは

優秀なエンジニアは「優秀なエンジニアは○である」「優秀なエンジニアは□□をしない」みたいなざっくりした色分けを、他人に対してやらない。*1

エンジニアがやることのひとつに技術による問題の解決があるが、そのためには物事を細かく分割して見る '目' を養っている必要がある。例えば A という問題があってその原因が a1 == 1 && a2 == 2 であるからだ、というようなとき。

「a1 == 1 も a2 == 2 も条件のひとつなんだから、 a1 == 1 になる事をそもそも禁止するか、a2 == 2 になる事をそもそも禁止するか、どちらかを選ぶべきだ」という人と、「a1 == 1 であることも a2 == 2 であることもそれ単体では問題ではないのだから、それらが揃わないようにすべきだ」という人に分かれる。例が雑で申し訳ないがこれは経験的にそう感じる。*2

で、結論がこのどちらになるにせよ、両方の考え方を考慮した上で結論を出せる人のほうが、片方の考え方しかせずに結論づける人より、エンジニアとして優秀だと思う。"問題を分割して見る '目'" と書いたのはつまりそういう事を指している。往々にしてベストな結論というのはそのコンテキストによって決定づけられるものであろうが、ベストであって欲しい結論に一般性を持たせたいがためにコンテキストに一般性を押し付けるのは何かすごく政治的だし、エンジニアがそういう筋書きをするのはある種の思考停止だと思う。エンジニアリングというのは政治に対するカウンターパンチではなかったか。

*1:という文章が矛盾しない理由は僕が優秀ではないからだな

*2:もちろん、「そもそも a1 == 1 && a2 == 2 という条件が複雑であること自体が問題 B であり、この問題 B の抜本的解決によって問題 A のみならず将来的に A' や A'' について考える必要すら無くなるのだ」という意見もあるが、それは 'いかにして問題を発見するのか' という問題へのアプローチの中で発揮される優秀さでありちょっと別の話なので横に置いとく

新型 MacBook キーボード

 最近、仕事して家事をこなして子供の相手をして、それだけで 1 日が終わるようになって、自分の時間が全然取れなくなった。それはある意味では幸せなことなのだろうが、学生のとき、まだプログラミングを知らなかった頃は 1 日 2 冊ぐらいのペースで猛烈に読書にハマっていたし、プログラミングを知ってからは 1 日 12 時間ぐらいコーディングしていた時期もあった。学生当時に読んだ本で「起きている時間のうち 1/3 を自分のためだけに投じることができない人は総じて不幸である」的な事が書いてあったのを読んで「あぁ今の自分はそういう意味では幸せなんだな」と思ったのを覚えている。いま、妻も子供も寝静まったあと一人になって、ふっとそういう時期を思い出すとき、その落差に悶々とすることがある。これを書いている今夜はまさにそういう日で、だったら blog 書いてないでコードでも書けよって気もするが、新型 MacBook を一日使ってみた感想とかを書いてみたい。

 待ちに待った新型 MacBook が届いたのだ。届くまでの間、目に止まったレビュー記事は積極的に読んでいたので、1 ポートの不便さについての指摘やキーボードの悪評については知っていたが、いざ使ってみるとそんなに悪くないように思う。網羅的にレビューするつもりはないのでキーボードについてだけ書く。

 最初はまず押し込みの浅さに違和感を感じた。しかし少しタイプしてだんだんそれに慣れていくとこちらの方が良いなと思うようになった。というのも、最小限の力でタイプが進められるので、押し込みの弱さに起因する打ち漏れが少なく、打ち直しが少ない。普段は MacBook Pro を使っているのだが、新型 MacBook を使っていると、手に馴染んだはずのそれよりも速くタイプできるようになった。

 またタイプしているときの音がとても静かなのが良い。MacBook Pro だと妻が寝ているときにコードを書いたりすると「タイピングの音がウルサイ!子供が起きるでしょ!」と怒られたものだが、これくらい静かならまぁ許容範囲じゃなかろうか。以前 Kindle を買ったときにもページめくりの音がしない事を評価したが、とにかく静かに利用できるデバイスというのは子持ちの家庭にはとてもありがたいのだ。

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 細かい話をしだすとキリがないのでバッサリ割愛するが、じゃあ総合評価でこのデバイスはお買い得かというと、割高だと思う。内部のスペックの低さや、1 ポートがいずれ 2 ポートになるであろう事も考慮すると、後継モデルを選ぶほうがずっと賢明だろう。それでもしかしこのモデルを買うというのは、信仰心とか好奇心とかの気分的な充足感にそれなりの対価を払うということであって、だったら概ねこの買い物には満足だなーと思う。

集中せずとも失敗しないのがプロだろうが、集中を呼び寄せるのもプロだろう。

 仕事をしていて「今は集中できていないな」と気付くことがある。ずっと集中しっぱなしというのはあり得ないから、「後でまたペース上げて取り返せば良いか」と思うのだが、そのまま何となくその日の業務が終わることもある。

 

 さて、羽生善治のこの本が面白かった。


Amazon.co.jp: 決断力 (角川oneテーマ21): 羽生 善治: 本

 この本を端的に紹介するのは非常に難しい。説明を文章にするとこの本の良さを損なってしまうような気がするのでやめておく。

 

 この本では何度も、氏が集中することについて書かれている。その文章から伝わってくる気迫のようなものは、将棋の対局の中の緊張感や、貪欲になって学び研鑽するときの狂気などを想像させてくれる。

 そうして一通り読み終えて、本の中で書かれている「集中すること」と、最近の僕が言っている「集中すること」との間にはずいぶんと格差があるなーと気付いた。どうも最近の僕は、手が動かせているならそれは集中している、と、考えているような節がある。そのため仕事する時間の気分を少しでも良くするようにと、ラジオを垂れ流しておいたり、作業用の音楽を YouTube に探しにいったり、やたら味の濃い飲料を口にしたりしていた。しかし、そうやって仕事した気になっていた僕は、ラジオの操作をしたり、 YouTube の広告が終わるのを待っていたり、冷蔵庫を開けたりしているだけで、そもそも期待していたような集中モードの時間にありつけていない。git で、最も集中できていたであろう時期のコミットと最近のコミットを比較してみるとその差は瞭然だった。書いたコードの行数が違うとかそういう事ではなく、自分が書いたコードの密度は自分がよく分かっているものである*1。「自分の管理は(足らないところはあれど)自分でやっている」という自覚は、どうも幻覚だったらしい。

 そこで、仕事しているときにバックグラウンドで音を鳴らすのを止めて、飲料は水かブラックコーヒーに限定した。たったそれだけで、グッと集中できるようになった。思考の根がより深いところに届くようになり、時間あたりの密度が非常に濃くなる感がある。読書するときにも適用したら、本の読み込みが良くなった。

 

 「集中するためには気分をハイにするのが大切で、そのために何かを足してみよう」という発想は基本的に間違っているんだろうと思う。「集中するためには気分の善し悪しなどどうでも良くって、まずはノイズっぽいものを取り除いてみよう」という発想の方が良いようだ。気分の善し悪しが集中をトリガするのではなく、集中することが気分の排除をトリガするのだろう。

*1:コードレビューで指摘してもらうコードの品質とはまた別の話をしている

今どき帳面に日記を書く人なんて少ないだろうけども。

 子供が出来てから「今考えないといけない事」がすごく増えた。まぁ充実している。その代わり、ボウッと Twitter を眺めながら思いついたことをあれこれつぶやく事はずいぶん減ってしまった。だいたい、ひどくプライベートなことはインターネットに出すわけにはいかない。「考えないといけない事」があるっていうのはつまり、それを励起するほどのインプットがあるという事でもある。でもアウトプットする場所が無いというのはとても苦しい。

 そこで、日記を書きたいと思うようになった。自分が子供の頃は、日記を書くという宿題が出されるたびにウンザリしていたし、SNS を利用するようになってからは「誰にも見られない日記を書く」なんてバカのやることだと正直思っていた。それが今になって、書きたいと思っちゃってる自分が理解できないし、だいたい日記を書いたってどうせ続かない。

 そんな事を思いつつ、一方で僕は、なかなか本を読む時間が取れなくなっていることに苛立っていた。「今考えないといけない事」とは別に「今考えていたい事」を見つけるためのインプットに飢えている状態である。時間が取れないと言ったって、探せば隙間の時間は、ある。そこで隙間の時間を読書に充てるべく、Kindle paperwhite を買った。

  電子書籍リーダーの良さについて今更細かく書こうとは思わないが、少なくとも

① 一冊の本より小さく軽い

② 子供が寝ている横でも無音でページめくりできる

③ 子供に破られる心配が無い

 という点で圧倒的に紙の本よりも便利なので子育てしている人にはオススメしたい。*1

 

 さてソフトバンクという企業がある。今では誰もが知る巨大企業*2だが、世間が注目するなかで著しい成長を見せたのはここ 10 年くらいだと思う。ソフトバンクの社長は孫正義。その参謀として暗躍した、嶋聡という人がいる。彼がソフトバンク成長の裏側を綴った本がめちゃくちゃ面白かった。

 本の中身の紹介は興味ある人が読めば良いとして、本の中でチラッと、彼がつけている日記についての紹介があった。ふつう日記というと「一日の締めくくりに書く」ものだと思うのだが、彼の場合は「一日の初めに書く」らしい。少し引用する。

私には「朝日記」をつける習慣がある。夜よりも朝のほうが昨日を省察し、今日の挑戦への意欲が湧き上がるからだ。これは二〇〇三年から始めているから、すでに一〇年以上続けていることになる。いま朝日記を読み返すと、社長室長として疾駆してきた日々がよみがえってくる。 

  睡眠は記憶の整理と定着をするというけれど、なるほど朝に昨日を振り返って書く日記なら、書いてみたいと思った。日記帳を買ってきて、何日か書いている。朝日記といえども、朝一番は子供の泣き声に起こされたりと慌ただしくなりがちで、とても書けそうにない。そこで、仕事を始める前の 5 分とか 10 分とかを使って書くことにした。

 書いてみるとやはり、「アウトプットする場所が無いがゆえの苦しさ」みたいなものはグッと解消する感がある。今はまだ書く事が新鮮だからかも知れないが、たとえばこれが 1 年とか 2 年とか続いたなら、僕の生活にとって日記というものが実は必要だった、ということになるんだろうと思う。

 まとめると「インプットを補完する Kindle を買ったら、アウトプットを補完する日記を得た」。今年はこの二つを糧にしてやっていく。

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*1:「物理的な本の存在が子供の興味をひくわけだから、その点を無視してはいけない」という意見はあると思うがそれは絵本がフォローしている

*2:今日の時点で時価総額 8 兆円

プログラミングをゲーム的な演出で学ばなくても、ゲームの中にプログラミングを見出す事はできる

 Final Fantasy Tactics というゲームがある。1997 年に発売されたゲームなんだけど、当時これを僕はプレイしまくっていた。

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 僕はこのゲームでひたすらキャラクタの育成にのめり込んでいた。キャラクタを育成するためには経験値を溜める必要があるんだけど、経験値は何か行動をしないと獲得できない仕組みになっている。で、キャラクタ育成っていうと単純で退屈そうな作業なんだけども、当時の僕はこれが面白くてしょうがなかった。面白くしている最も大きな理由は、経験値獲得ルールにある。

 経験値は何か行動をすれば獲得できるのだが、行動したからといって何も効果を生まない場合は経験値が獲得できない、という制約が課せられているんである。例えば、攻撃してダメージを与えれば経験値獲得するが、攻撃に失敗すると経験値も無し。HP を回復させれば経験値獲得するが、既に HP が満タンなら経験値は無し。武器防具を盗んで成功したら経験値獲得するが、失敗したら経験値は無し。という具合。

 そして、経験値獲得の効率を高めるためには、何よりまず戦闘をしていなくてはならない。戦闘以外では経験値が入らないからだ。つまり戦闘は長ければ長いほど良い。戦闘は敵を全て倒すと終わってしまうので、敵を倒さないでずっと戦い続ける必要がある。だから、味方同士で殴り合ったり回復し合ったり、というのを延々と繰り返すようになる。ここで例えば、パーティに回復役がいなかったらどうだろう。そういう繰り返しオペレーションはできない。

 そういう事態にならないように、戦闘にどういうキャラクタを参加させ、それぞれにどういうアビリティを持たせるか、という組み合わせが非常に重要になる。キャラクタの育成をしているわけなんで、戦闘に参加させるキャラクタはいずれも未熟である。如何にして未熟なもの同士を組み合わせ、戦闘での経験値獲得オペレーションを成功させるか、という想像力が必要になる。そういう設定をするのが編成画面である。

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 編成画面でキャラクタの細かいセッティングをした上で、長時間の戦闘をやって経験値を稼ぐ、という感じ。まぁ、このゲームの説明はこの辺で終わりにしておく。

 

 さて、総プレイ時間を配分してみると、戦闘画面が最も長くて編成画面はそれより短くなる。その一方、編成画面でやったセッティングによって、戦闘中の経験値獲得オペレーションの幅は強烈に制限される。 戦闘中はひとつひとつ行動コマンドを僕が入力しているのだけど、まるで選択させられているような気分になるんである。あるとき、この感覚はまるで C++ とか Java を書いているときの感覚に似ている事に気付いた。

 プログラムを書くときは実行するときのことを想像している。ひとたび実行が開始されれば、プログラムに書かれている以外のことはできない。別のレイヤでも似たような関係がある。例えばフレームワークのプログラムを書くとき、利用者に余計な事をさせないよう、ある種の制限を課すような設計をする。利用者側のプログラムを書くときは、その趣旨に則った上で(=課せられた制限の中で)最大の利益を引き出すような実装にする。つまり、プログラムの実装と実行の関係、フレームワークの設計とそれに載せる実装の関係は、それぞれどちらも編成と戦闘の関係と類似している。

 これに気付くと、このゲームをプレイする事自体がまるでプログラミングをする事とイコールであるかのように錯覚する。武器を装備したりアビリティをセットしたりすることはプログラミングであり、編成画面とはプログラミング言語なのだと理解する。もちろんそこにはオブジェクト指向の匂いも無いし、コード片も無いし、文字入力さえも無いんだけど、確かにプログラミング言語としての手触りが感じられる。

 

 最近、「プログラマじゃなくてもプログラミングを学ぼう!」的な機運が高まっている。RubyPython のコードを書いてモンスターを倒し、ステージをクリアする、というようなゲーム性の高い学習サイトが台頭してきたのもここ最近の話だと思う*1。そういう「プログラミングを学ぼう!」という文脈の中では、具体的なコード片の入力を促すようなサービスが量産されがちで、今後も似たようなサービスが出てくると予想している。でもそれって「プログラミングを学ぼう!」というテーマが元々やりたかった事とは少し違ってしまっているんじゃないのか。そもそも、プログラマじゃない人がプログラミングを学ぶメリットは何かというと、物事をより抽象化して捉えるようになり、より抽象化して考えるようになり、最終的に日常生活へ何らかのフィードバックが発生するという、思考プロセスの総体的な変化であると、僕は考えている。だからそのために RubyPython の文法を覚えたり、コード片でモンスターを倒したりっていうのは、実はずいぶん遠回りになっているように感じられる。

 抽象的な思考を手に入れるためにゲームをやれ、という事を言いたいわけでは無い。でも、何故かよく分からないけどプログラミングをやるのが良さそうで、何かよく分からないけどプログラミング学習サービスの中で人気があるから、という理由でコードを書くくらいなら、もっと他の面白いと思える事をした方が良いよね、とは思う。いやまぁ、顔も知らないアカの他人がプログラムを学ぼうがゲームをしようが僕にはどうでも良いんだけど、子供ができて数ヶ月が経ち、少しずつ物事を理解していくさまを見ていると、学びっていうざっくりした領域の中で横たわる「抽象的思考の獲得」っていうのはどうやるのが良いんだろうかと気にするようになった。

*1:そりゃ昔からあったちゃあったんだけど

チャットと組織

 仕事では常にチャットを開いています。

 チャットベースの仕事環境っていうのは今日び珍しく無いですが、僕の場合は在宅で仕事をしている都合上、オフィスとのコミュニケーションはチャットが 9 割ぐらいだったりします。たまに仕事を終えたあとで少し時間をとって、一日のログを全て読み返すようにしてます。「この時は、この人が言ってる事がよく分からないまま話を続けてたけど、こういう事を言ってたんだな」とか「この話をしてる時、あの人はあの作業してたんだな」とか、そういう事に気付いたりするわけです。

 で、今はチャットベースのコミュニケーションが身体に染み込んじゃったんですが、もしこれが声による会話ベースだったら?と思うことがありあす。声はログに残らないし*1、その時間・その場所に居ないと情報にアクセスできない、っていう、まぁそういう側面から見るとだいぶ不便な方法です。情報が後から閲覧・検索可能な状態としてログが残っているということは、コミュニケーションをする人と人の位置的・時間的な束縛からだいぶ手っ取り早く強力に解放してくれていることが分かります。

 一方、その対価として受け入れないといけないことは、知らぬ存ぜぬっていう逃げ道の狭さであるように感じます。チャットを使えば、メッセージのユニキャストもブロードキャストもマルチキャストもできますが、そのときディスプレイにはくっきりとその内容が、そりゃもう綺麗なフォントで印字されるわけです。そいで、スルーしたのであればスルーしたという事までログとして残り続けます。いやまぁ、僕もそんなに肩肘張ってチャットにかじり付いてるわけではないですけど、でもまぁ、スルーしたよね?と。あともう一つ、これはチャットに限らないんですが、ある話題が何かあったときに、その話題が進むにつれて興味が無い人が話題の輪から退席する、ということが非常にやりにくいです。声ベースの会話だったら一部の人だけが話を詰め進める一方であまり関係が無い人は徐々にフェードアウトするっていう事ができるんですが、チャットだと自分にあまり関係が無い話題であっても最重要な話題のときと全く同じくらい綺麗なフォントでディスプレイに文字が並ぶわけです。たまにそれがちょっと面倒に感じたりもします。

 で、ここまでのダラダラした話をグルッと丸で囲って、一歩下がって考えてみるに、チャットベースのコミュニケーションには人数的な限界があるな、ってのは少なくとも思います。例えば 100 人が一緒にチャットするってなると(そんなん実際ありえないけど)、比較的どうでも良い事を発言するのははばかれますよね。だからといって少人数で private room みたいなところで話を進めるとセクト化が進むし。。。で、こういう事を言うと「そんなん、声で話してたって一緒じゃない?」って話になるんですけど、これが全くその通りで、むしろ声で話すほうが人数の制約は強いと思います。思うに、「ある程度以上の手軽さを残したままで、メッセージを組織の中に飛び回らせる状態を維持できる人の数の制限」が、チャットベースでコミュニケーションしたほうが普通に会話でコミュニケーションするよりも緩いんじゃないかなと。よく、チームを組むときは 3 〜 5 人の少人数構成が良いとか言いますけども、実際にはそんな理想的に人をグループ化できるほど人の配置は簡単じゃないと思うんですよね。だから 3 〜 5 人っていう数字が大きくなってもそのチームが大丈夫でいられるスキーマが欲しいです。(僕は少人数のチーム編成が良い、という考え方そのものが逃げ・思考停止だと思っているので少しバイアスかかった意見ではありますが)そういうスキーマが欲しい、と恒常的に思っています。3 〜 5 人っていう数字の根拠になっているものの一つがコミュニケーション上の便益にあるなら、ツールとしてチャットを使うだけで実はその部分を解決できちゃうようなケースってたくさんありそうだな、とか、そんな気がしてます。

*1:録音すれば良いとかそういうツッコミは論点ズレるのでスルー